昭和五十六年五月十日 月例祭
 真の信心が段々身に付いていくことの楽しみ。それが信心の喜びというのだと思います。おかげを頂いて嬉しいというのではなくて、真の信心を目指し、真の信心が少しづつ身に付いてくる。その楽しみであり、喜びでないと、何十年信心を頂いておりましても、真のおかげになってまいりません。いわゆるおかげの展開がなされないです。真の信心を教祖様は教えておられるのでございますから。
 先だって、二、三日前でしたか、ある方から電話が掛かってきた。ご遠方ですけれども、ある教会に親戚中をあげて信心を頂いておられた。ところがある難儀な問題に直面しました時に、合楽のことを聞かれて、そして合楽にお参りして教えに基づいて考え方の間違いを改め、そこから段々おかげになっていって、ほとんどその一門の方が合楽に参って見えるようになりました。ただお母さんだけが、「道を間違えてはならない」というて、依然として、その教会におかげを頂いておられる。先だっても親戚の何か都合があった時に、お母さんが、それとはなしに、息子の嫁にあたります方にお話をなさった。○○さん一つよおと考えて見てくださいよ。例えば、私達が何々という教会におかげを頂いた。そこが手続きの上での親であり、親先生であり、親教会であるそれを忘れて、他のお金持ちの教会がある、お金持ちの親があるというて、そちらへ変わった。貧乏はしておっても、親が子供のことを思わないことはない。言わば親が願っておられる。親孝行の信心をしなければ、金光様の信心はもう親孝行の信心から始まっておるとばいというて、まああんた達が間違っとるばいと言わんばかりにお話になったのをお嫁さんが聞いて、気の毒だな、かわいそうだな、お母さんもう、信心とは助からなきゃでけん。
 私どもが頂いておるみ教えは、とにかく「道という言葉に迷うことなかれ、道は教えを踏むほかはない」と合楽では教えられるが、もう確かにこの教えで、そうだと思うた。少しでも真の信心が分からしてもろうて、信心を進めていき、心に安らぎのおかげを頂いては安心のおかげともなり、それが真のおかげにつながっていくおかげを兄弟みんなが頂いておられる。ところがお母さんは、おうちでご長男の嫁さんと、あまり仲も良くなくて、いろいろ困った事情の中におられる。けれども昔気質の「道を間違えてはならん」というのでね、だからそこにほんとのものがあるかと言うと、本当のものがない。
 私は親教会を粗末にするとかしないとかというのではなくて、とにかく教祖様のみ教えを行ずるということが、お道の信奉者の生き方であらなければならない。その教えを踏んでいくところに真の道がちゃんとついて、いうなら天地の大道にもつながっていくようになっておるのである。結局、真の信心をさせてもらえば真のおかげが受けられる。
 まあ教団始まってこのかた、私どももそれで大変縛られるような思いをしたことがありますが、「道を間違えてはならん、道、道」とあんまり金光教では道を言い過ぎる。「何何道」高橋正雄先生は「夫婦道」といったような道を説かれましたですね。わざわざ夫婦道と言わんでも、お道の信心させてもらえば、夫婦道はもう拝み合うていけれる道なんです、夫婦がね。ですから夫婦道というて別にあるわけではない。金光様のご信心すれば、いうなら合楽理念をもってすれば、夫婦は合楽理念をもってする外はないでしょう、商売は合楽理念をもってする外はないというように、その理念に基づいていく生き方から、ちゃんと商売人には商売人の道がついてくるのです。それをあまりに、こう道道ということに道を難しゅうして、言うなら真の道とは違った道を歩いて来ておるかのように思われます。その証拠に真のおかげが現れない。
 これはもう三十年近くも前のことでしたが、当時、甘木の教会で熱心にご信心をなさって、もうそれこそ全国でも有名なご信者さんのご一家がございました。千足というちょっと上の古賀さんと申しましたが、ある時、椛目に自分は信心じゃないもののようにして参って来た。ちょうどたくさんというか、小さいお広前いっぱいにお話頂いておるのを、変わった方が見えたなと、なかなか行儀正しい、どこかのご信者さんであろうと、分かるですよね、だいたい。そしたら千足の古賀さんという方であった。初めて当時の椛目での話を頂いて「こりゃほんなもんばい」と思うた。それからしげしげと参って見えておりましたが、どうでも自分の方の地区のご信者さん方を集めますから、一晩ゆっくりお話に来て頂けんだろうかということだった。
 当時の私の取り巻きのご信者さん方七、八名もまいりましたでしょう。それで一晩中お話をさせて頂いて、明くる朝お食事をよばれます時に、お神様が大きな八足の上に二つ並べてある。あれはどういう訳ですかと言うたら、千足に布教に出られましたけれども道が開けずに、とうとう先生がおられなくなってしまった。だからそこの神様を預かっておると言うておられました。というように熱心な方でしたが、「先生、これは私のほうの家宝でございます」と言うて、そのお社の真ん中に立ててあった白扇がある、それを先だって御本部参拝をさせて頂いたときに、まだ三代金光様が御在世の頃でございますから、「金光様、家の宝にしたいと思います、どうぞこれに何か一筆お書き下げいただきたい」と言うて願われた。そしたら金光様がその白扇の真ん中の折ってある小さいあそこのところに、それこそ小さい字で「真の信心」と書いてあった。これが古賀さんのうちの宝だと言うて、まあ拝んでみてくださいと言うて持って見えた。それで私はそれを開いてから御祈念をさせて頂いたら、三代金光様のお声で「真の信心とは安心のおかげを受けることであります」とおっしゃった。真の信心とはなかなか難しいものだなと、ついこの頃まで思うておった。しかもその真の信心とは安心のおかげを受けることでありますと仰せられるのですから、いよいよ難しい。
 ところが最近、私が思います、お道で言う安心のおかげというのは、その都度都度、そのことに対して有り難いとお礼の言える心、即ち安心。安らぎ。そのことがどういうややこしい問題なら問題でありましても、それを平生な心で受け止められる、それが安心。お道の信心はそれだと思うです。言うならば安心立命。もう絶対といったものではない。大きな悟りといったものではない。しかもその大きな悟りと安心立命と言うておっても、それは本当のものではない。まあ仏教的に言うならば諦観である。諦めである。もうこの世ではしかたがないというような考え方を、私は安心といったように思う。だから難しいと思うておった。
 ところがお道の信心では、例えば問題が起こる、心配でたまらん、お取り次ぎを頂いた、心が落ち着いた。心がすきっとした。これが安心だと。だから私は、その真の信心とは安心のおかげを頂くことでありますと、三代金光様のお言葉が今はっきりと分からせていただくような気がいたします。果たして私は真の信心になっておるかどうか、真の信心の道を歩いておるかどうかということを日々の事柄の中に喜びで受けられ、もし信心がなかったら心配なことであろうけれどもお取り次ぎを頂いておるからと心に安らぎ安心があるならば、そういう心が真の信心による安心であると。
 昨日の福岡の方から一週間に一辺ぐらいお参りをして見える、実意な婦人があります。お店が倒産寸前にあるというようなことから、どうでもここのところを切り抜けておかげを頂く手立てがあるならばと言うお参りでした。熱心にお参りしておられましたが、それこそおかげを頂いて倒産のおかげになりました。初めて、もしこういう生き方で商売が繁盛したらおかしいと気が付かれたんです。当然これは倒産するのが当たり前、その頃から本当の信心を目指されていくのが、ようく分かる。お参りをしてくる、お話を頂いて、あれもこれもと思う、なかなか分からんけれども、合楽で言われる天地日月の心のせめて地の心、言うならば土の心、言うならば黙って治めるという生き方を、本気で行じさせて頂くようになった。起きてくる、その倒産もすべてのことも、これは天地の親神様のその方の家にかけられためぐりのお取り払いでもあり、次の本当の信心を頂かせてくださるための力を与えてくださるためのお働きだということが漠然と分かってきた。本当に黙って治めることの素晴らしいことがこの頃日々の体験の中から感じられるようになった。
 昨日も電車でお参りして見える道中で、ほんとに自分のこげな中にこういう安らいだ心で神様参りどんしござると人から言われるけれども、そのお参りをしておる自分がとにかく有り難うなって、うれしゅうなってきた。そして思われたことは、これは自分の魂がこのように安らいできたように御先祖の御霊様達も、こういう安らぎの御霊になられたら、どんなにか素晴らしいことであろうと、ふと思われた。そして気付かせて頂いたのが、今日はおじいちゃんの帰幽日だったと思うたというお届けでございました。おじいちゃんも助かりたいと思うてござるだろう。自分の心が例えばお願いをしたら、こんなおかげを頂いた。こういうふうに開けないはずの道が開けたというのではなくて、お願いをしてお参りをしていくうちに、結局倒産にはなったけれども、これはこのまま店が繁盛しておったらとんでもないことであった。これは倒産が当然のこと当たり前のことと受けられた。そして過去のありかたに改まりを感じさせて頂くようになり、教えを実験実証していく日々の中に自分の心が安らいできた。いや喜びになってきた。こういう中にこういう喜びが湧くとは不思議でたまらん。自分の魂が助かっていっておる証拠なんだ。この魂が助かっておるように、先祖の御霊の魂も助かられたら、どんなに有り難いことになるだろうかと思うたら、ふとおじいさんの帰幽日であることに気付かせて頂いて、そのお届けがあった。もちろんまだ信心が若いから、お供えをせんならんとかお初穂せんならんとか分からんけれども、それをお届けされたから私がさっそっく玉串を作らせて御霊様へ玉串を上げてもらった。上げておられる時に私が頂いたご心眼が「次」という次郎の次ですね、次ぐという字を頂いて、下に「女」という字を頂いた。姿ということである。姿勢の姿である。言うならば信心の姿勢ができた。信心の構えができた。お願いをしたけれども倒産をした。その倒産を境に本当なことに目覚めてきた。そして教えを実験実証することになってきた。心が安らいできた、有り難うなってきた。大体はこういう中にあって有り難いという心なんて湧いてくるはずなんてないのに、何かこれが信心の喜びであろうかと思われる喜びを感じる。その感じる喜びを魂の世界にある先祖の御霊様達にも頂いてもらったらというようなところまで心が動いていった。おじいさんの帰幽日であることが分かって、そのおじいさんの為に玉串を上げておられるときに、私が頂いた。言わば姿という字であった。私は思うた。信心の姿勢というものは、このようにして出来ていくんだなと。本当なことから本当なことが分かっていくということが、これは姿勢を教えなくてもだんだん出来ていくんだなと。こう構えなければと言わんでも、信心の内容ができてくるに従って構えができてくる。次ぎの女といただいて、私が思うたのは、おそらく次の合楽の信心、もう次のご婦人の方ですから、合楽の婦人会の言わば立て者とも言われるような信心に進んでいかれるような方ではなかろうかというふうに思うたんです。次の女、次の時代を担っていく合楽の信心、合楽を芯にしていけれるような信心。ただ私のことだけが芯というような信心じゃなくて。それでもだんだん信心が分かっていくに従って、いわゆるお役に立ちたいというような一念が出来てくる。
 「真の信心とは安心のおかげを受けることであります」。それこそお参りはまだ数ヶ月であるけれども、信心のなんたるかが分かってきた。間違った生き方、それがそのまま繁盛につながったら、いよいよほんとのことに、それが倒産した。そこから本当のものを頂いていこうとする姿勢。そして信心による魂の助かり、心の喜びが感じられる。それをいわゆるこの方の場合は、ご先祖の御霊様にむかって、このような心になられたら御霊様も助かられるだろうという気になった。この信心の喜びが隣の人にも伝えられる、周辺にいく。言うならば光りの輪はそのようにして広がっていくんだと思います。
 先ほど聞いていただきます、そのお母さんとお嫁さの、道を間違えちゃならんばいという、それも。どれがほんとのと思わんけれども、合楽にご神縁を頂いて言うならば初めてお道の信心の有り難さが教えによって分かってきた。教えを行ずることに、おかげで商売も大変繁盛しておられますが、とにかく周囲にもどんどん人が助かっていく。一日の月次祭なんかにはバスを借り切って近所の方がお参りになります。そういう助かりを頂いておられるから、親に言うて聞かせても何だけれども、そのお母さんが気の毒だなと、そして新たに合楽でご縁を頂いておることが有り難いと思いましたという、これは昨日のお電話であったが、いわゆる真の信心に向きが変えられる時に真のおかげが伴うてきた。どんなに道を間違えてはならんというて、その道を間違えんようにしておるかのようにあってもです、その真のおかげが伴うてこないならば、私はここでほんとに、それこそ先だって久留米の御大祭で申しましたように、考えなければならない。本気で考えなければならない。合楽のみ教えをみなさんが頂いてくださって、今朝の御理解に「習うたことを忘れてかやしてしもうても師匠は喜ばん。習うたことを覚えておって、このように出世をしたといや師匠も喜ぶ。神も喜び金光大神も喜び氏子も喜び」というような信心をせよというような御理解に基づいて今朝からの御理解でした。自分の心が助かって、こういう中にあって心が安らいでおる、喜べておることは有り難い。しかもこの喜びを御霊の世界にまで送ってやれたならと思う、その心。私は金光大神の喜びであり神の喜びであり、自らのまた喜びにもなると思うんです。
 おかげを頂いてしまわなければ、それこそ真善美に輝くような世界に住まわせてもらわなければ、おかげを受けたといのではなくて、どういうような中にあっても心が安らいでおれるような心の状態を頂くことに、まず焦点を置いておかげを蒙っていかなきゃなりません。
 今、毎朝、朝の御祈念にお参りをしてきておる、北島さんという方がおりす。麻生さんのお導きで、もうとにかく商売繁盛のことばかりで一生懸命参っておられた。ところがこの頃体がちょっと悪い。それから「難はみかげ」とおっしゃる。確かに「難はみかげ」ですね。もうとにかく苦しゅうて苦しゅうて、中では迷わなければならない事まで起こってきたんですけれども、一心を貫いて、最近、朝参りができるようになった。生き生きとして、先だってからお夢を頂かれた。「菊の花とスイートピーの花」のお知らせを頂いて、この階段を登らなければならない。ところがその階段がゆらゆらするから危なくて登れない。その梯子のところに花屋さんがあって、スイトピーと菊の花を売ってある。ところがスイトピーの花だけを買って帰ったというお夢であった。信心というのは一段一段、こうやって高められていくようなもんです。だから簡単ではないけれども、これは喜びをもって登れば簡単に登れる。それこそ有り難く登れるんだけれども、普通の人から見たら、何か危のうてきつそうに見えるけれども、あらしもうた、スイトピーじゃなくて菊の花の方を買わにゃんとじゃった。菊の花というのは合楽の信心のように言われるのだから、というておりましたが、昨日またお夢を頂いておられる。それはどういうことかと言うと、榊の木を芯にして菊の花を根締めにしてある花を頂かれたと言われる。素晴らしいですね。神様がそこに本当に物を言ってくださってあるような感じがするですね。榊と言えば、言うならば神の木、神心。いよいよこの神心が育っていくということは、その根元に菊の花。いよいよ合楽の信心の有り難さがだんだん分かって見えて、今晩も参って見えております。もう朝参りしたから晩な参らんでええということじゃない。心が生き生きと有り難うなってくると、そうなるんです。ところが、この榊というのは今は新芽が出ておる時ですから、この新芽はすぐしおれてくる。そこでみなさんの宅祭りなどでは、その新芽がぐしゃっとならんようにいろいろ工夫なさっておられる。切り方にも、そのあとの水揚げにもいろいろ工夫して、まあしゃんとした玉串を上げてもらおうという訳でしょうがです。信心もそうです。もう確かに打ち込んだら確かに信心の喜びに触れられるのです。いままでかつて味おうたことのない生き生きとした心が生まれてくるです。けれどもこれが、そういう新芽はすぐにしおれやすい。そこに工夫がなされていくというところに、日々の信心のみ教えがね、今日の御理解じゃないけれども、毎日3時にここの先生方の研修があって何十名の先生方がそれを練りに練って朝の御理解を戸板に掲示してあるのが、まとめたものであります。まとめないでも毎日の御理解を覚えて帰れば、なおよいけれども、頂いて、ただ有り難かったというだけでなくて、戸板を一辺見られると、なるほど今日の御理解の芯所というのが表現してある。それを手帳にでもメモして帰るくらいな信心をしなければ神様の言うてくださったことは道で落としてしまい、自分のよいようにするからおかげはなし、と仰せられるようなことになってしもうて、神も喜び氏子も喜び金光大神も喜びというようなことになってこない。それではいったい喜びあえるおかげを頂くためには、その教えをほんとに徹して頂く、その行じ方を日々の信心のけいこに努めなければならない。必ず心の中に喜びが湧いてくる。その喜びが生き生きとして、それを人にも伝え語らなければおられないようなおかげが、私は合楽示現活動だと思うです。示現活動の芯はそういう生き生きとした内容があって、それが目には見えない御霊の世界にまでも通ろうかというほどしのものになっていくのです。
 真の信心には真のおかげがつきもの。その真の信心とは安心のおかげを受けることであります。これは大変だと私も数十年思うおったけれども、それこそ数えていうなら十回ぐらいしか参ったことのない方がです。そういう店は倒産、そして人間関係、いろいろ問題はあるけれども、そういう中にあって合楽に通うてきておる自分が有り難うなって、こいう心の状態が魂の世界までもと思いを馳せることができるようになった。それがもう私は安心だというふうに聞いて頂いたんです。その安心がいつの場合でもどういう問題が起こってきても、その時にはやはり心配であったり、不安であるかもしれませんけれども、一度お取り次ぎを頂いたら、はっきり心が安らいでくる、すきっとしてきた。もう即、それは安心である。真の信心とはそのようにして、その事柄一つ一つをお礼の言える心。その一つ一つの事柄が御神意と、神様の御都合としていただけれる心、そして心が波打たない、安らいでおられる心を日々頂いていくということなのです。それが安心である。それを返せば真の信心ということになるのです。
 さきほど久富繁雄さんが見えられて「今日は暑かったですね」と「今日は田んぼは暑かったろう」と私申しましたら、「おかげで今日は風がございましたから」と。私は金光様のご信心はもうこれに尽きると思うんですよ。「はあ、ちょいと今日は暑かったですね」というのじゃなかったんです。とにかく風があったから有り難いという答えしか出てこない生き方をいよいよ身につけていきたい。それはそのまま真の信心です。心が安らいでおらなければ、心が有り難いと思えておかなければ、即、そういうふうな答えになって出てこない。
 一切の中に神様のご都合ということが本当に分かったらお礼を申し上げなければおられない。今日も昼お参りをした方が手にこう包帯をしておる。そのことを今日お願いに見えたのかと思ったら他のことであった。手はどうしなさったかと言うたら、誰かがそこにコップを置いておったら、そこにこう手をついてコップが割れた。そのコップで切ったとこういう訳なんです。ああおかげ頂いた。大難を小難でおかげ頂いてお礼申し上げなければならんと言うて申しましたことでしたことでしたけれど、こげん所にコップを置いとくけんじゃんと言うたらもう信心にはならん。ほんとに大難を小難でおかげを頂いてというそのお礼の言えれる答えを出したい。そのためには合楽で言われる合楽理念をもっと深く広く分からせて頂くために、一つ考えなければいけない。じっとそれこそ考える葦とか、考える人とか、ロダンの彫刻がありますですね。テレビにお仕舞のころに出てくるところが考えておるでしょうが、とにかく頂いた御理解を一つほんとに深く広く分かって自分のものにするためにも、私はもう少し考えなければいけんのじゃないかと、そこから聞いただけのお話からもっと深いものに触れていけることができる。でないと頂いた値打ちというものがない。頂いたものをいよいよ値打ちづけていくということが信心だと私は思います。どうでも信心の目当ては真の信心、そして真のおかげを頂くことにあります。
どうぞ。